何時からだったかわからねェ
何時までなのかもわからねェ






一目見たその時から奴の心はもう、全てあのお人のもの。




全て貴方に






――――――絡め取られた









徳次郎から仕事の依頼があった。

ある将軍家の跡取り問題に関わる仕事。

しくじったら最後、奴も徳次郎も治平もおぎんもただじゃ済まねェ。

叩けば埃の出る体、断わることも出来ないまま引き受けるしかなかった。





「済まねェな、又ッ公よゥ。えれェことに巻き込んじまって」

「よせ、気味悪ィ。成功させりゃあいいこったろうよ」

「だが半年は江戸に帰れねェ。例のお人にも会えねェぜ」

「そんな嫌味言ってる暇あったらさっさと行きやがれ。時間がねェや」

「そうさな。じゃあ一つ頼むぜ」






大きな樽を背負った徳次郎はそのまま闇の中へ姿を消した。

又市はその背を見送る事もなく冷たい地べたに座り込み、煙管に火を付けた。








『例のお人にも会えねェぜ』






そんな事ァ分かってる。

分かってるがどうしようもねェ。

まだ想いも告げてねェ身で半年はちと長すぎる。






「はん、餓鬼みてェだぜ、本当によゥ」






想いを告げるなんて事ァ、餓鬼のすることだ。

好きならば力づくで押し倒してしまえばいい。

口八丁で口説いて煙に巻いて、小股潜りなら容易いことだ。

なのにあのお人だけにはそれが出来ねェ。







「どうしちまったんだか。奴はよゥ―――」






空を仰げば月が見える。

今夜は赤い満月だ。血のように赤い――――・・・・・





「今から行きゃあ丑の刻には間に合うか」






愛しい愛しいあのお方を。

住む世界の違うあのお方を。




組み敷いてその首に噛み付いたならどんなに甘美な味がするだろう








気付いたら走り出していた。

何も考えちゃいねェ、何も考えちゃいけねェ。




ただ、あのお人の事だけ想っていりゃあいい。








走って走って走って。



屋敷に辿り着いた時にはもう月が傾いていた。

合図の鈴を鳴らす。

しばらくしての窓が静かに開いた。その隙間に身を滑り込ませる。

周囲の音も鼓動も驚くほど静かだった。




寝着姿のが笑顔で迎えてくれる。

桃色の着物に白い肌が映える。






何度その身体を抱く事を夢想したか―――――







「すいやせん、奴は――――・・・・・」







言葉にならない。

そんなものは何処かへ行っちまった。




手足が勝手に動く。

細い腰に腕を回して強引に引き寄せる。

右手で顎を捉えて唇を押し当てた。

の身体から力が抜ける。左手で身体を支えたまま床に崩れた。








さん、奴は―――・・・・・・」





何を言おうとしているのか分からねェ。

の瞳が恐怖で揺れるのが分かる。

けれどもう。


―――――止まらねェ・・・








一瞬の躊躇の後すぐにまたの首元に顔を埋める。

己の独占欲を形付けるように所有印を刻む。

消えぬよう同じ場所に幾度も幾度も。






「又市さん!!」







涙が零れる。赤みが差した頬に雫が流れた。

それを舌で拭い、襟元から手を差し入れた。

温かく柔らかな感触に何度も手を動かす。

乱れた心音が手のひらを通して伝わる。









「嫌」

さん」

「嫌ァァアア!!」








突然突き飛ばされた。

泣きじゃくるに思わず目を逸らした。



愛しいお人。

微笑む姿が好きだった。

それなのに奴は――――










「又市さん、何処へ行こうとしているのです」





息も絶え絶えにか細い声が暗い室内に響く。

時計の秒針だけがこの空間で唯一規則的な音を刻んでいた。






「私を捨て、何処へ」







そう言って泣き崩れたを抱きしめる。

頼りなさ気なその細い身体を。

闇に触れた身体はひどく冷たかった。





捨てる?奴が?

違う。そうじゃねェ。

けれど。





―――――違わねェんだ









又市は御行箱からすばやく薬瓶を取り出した。

蓋を開けると、香のような匂いがする。

徳次郎得意の睡眠香。









「すいやせん、奴は――――・・・・・」










結局最後まで言うべき言葉が見つからず、崩れていくを抱きしめた。

薬瓶の蓋を閉め、涙を指で拭う。










冷たい身体を力いっぱい抱きしめて、又市はその場を後にした。